ようやく教習所を卒業できた

 最近はぼちぼち大学4年生をしている。ぼちぼち大学4年生を堪能している中でも、ハードなことをこなさざるを得なかった。それはなぜかと言うと、教習所というものに入所してしまっていたからである。

 

 教習所に入学したのは6月半ばである。教習が始まったばかりのころは、運転というものがここまで困難だとは思っていなかった。教習所で受ける教習は、所内教習と路上教習に分かれている。所内教習は運転にかかる操作法を学ぶといったテイストで、そこまで困難だとは思わなかった。所内教習自体は比較的スムーズに進み、2ヶ月ほどで仮免許を取得することができた。これによって教習所自体をスムーズに卒業できると思ったわけだが、教習所はそんなに甘いものではなかった。

 

 路上教習というものが始まった。路上教習はその名の通り路上を走る。通っている教習所は日本の首都と呼ばれている場所(実は日本は首都というものが法律によって定められていないらしい)、すなわちTから始まる都道府県にある。他の都道府県で運転をしたことがないからわからないが、少なくともこのことによって教習の難易度が上がっている。

 

 難易度が上がっていると感じるポイントを挙げていく。まず、都市部で運転をするということは車の通りが多い。「車」と表記しているのだから、もちろん自転車も含む。自転車と車が共存している社会においては、より安全を確認して運転をしなければならない。一度路上教習をしているときに、歩道がある道路で路側帯のあたりで自転車が停車したことがあった。車が通るから止まってくれたのだと思うが、止まるよりも進んで歩道に移ってくれた方がありがたいなあと感じた。

 次に難しいと感じるポイントは、信号機である。信号機なんか黄色と赤で止まるとかそんなもんでしょとお思いだろうが、そうではない。都市部だと当たり前のように矢印付きの信号がある。矢印付きの信号があることで、右折したいときは黄色の後も進行できることに留意しないといけない。これによって、やはり注意する点が増えている。なんなら右折の矢印だけではなく、直進と左折の矢印がある場所だってある。なんやねん。

 

 以上に挙げた困難と戦いながら教習を進めていった。教習を進めていくと、自主経路と呼ばれる教習を行うことになる。この教習は、定められた場所まで自分が決めた経路に従って運転するというもので、指導員の指示がない。これも困難の一つだった。なぜかと言うと、昔から地図を読むことが苦手なのである。地図が読めないんだから道が覚えられるわけない。地図上のランドマークとなるものを覚えて臨んでも、見通しが悪くてランドマークが見えないとか言うことがザラだった。普通に道を間違えた。

 

 自主経路を乗り越えると、あとはそこまで困難ではない。切り返しとか縦列駐車とかのやり方を覚え、卒業検定に臨むだけだ。卒業検定は、決められた路上のコースを走ることと、切り返しor縦列駐車のどちらかが見られる。これだけの困難を乗り越えて来たんだから、大丈夫だろうと思って卒業検定を受けた。

 

 不合格だった。切り返しをミスったらしい。縁石に乗り上げてましたよとか言われたけど、全然気づかなかった。縁石に乗り上げたことにすら気づけないやつが免許を取得していいのかよと思ったが、再び卒業検定を受けて合格することができた。晴れて(曇っているかもしれないが)教習所卒業である。

 

 教習所を卒業するのに7ヶ月くらいかかった。仮免許を取得してから、咳が止まらない期間があってなかなか教習を受けられなかったことも卒業に時間がかかった原因である。もう少しで仮免許の期限が切れて、今までの教習がパァになるところだった。

 

 教習所を卒業したら自動的に免許が取得できるわけではなく、ここからまた学科試験を受けなければならない。卒検前効果測定が満点だったから大丈夫だとは思うが、縁石に乗り上げた過去があるので学科試験でも縁石に乗り上げないようにしたい。

 

 免許を取得したらじゃあ安心というわけではなく、安全運転に努めなければならない。運転初心者の期間中に2回程度違反を犯してしまうと、初心者教習みたいなやつに参加しなければいけなくなる。初心者教習は1日時間が取られるらしいからそれは避けたい。縁石に乗り上げないような安全な運転を心がけていきたい。

 

 

夜の活動

とりあえずおはようございます。いままで研究室の活動の一環として計算を行なっており、いい感じに計算結果を求めることができたので昨日(今日に差し掛かっているが)の人間としての活動は上出来であるとみなす。結果として夜を更かしていることにはなるが、朝に活動をしても夜に活動をしても外の明るさが違うだけで特に問題ないと感じている。なんなら夜も大いなる勘違いをすれば朝と同じだからね。

活動なんてできる時にやって、やりたくない時はやらないくらいがちょうどいい。やらなきゃ行けないことをサボってタスクが溜まってしまったときや、割り振られた仕事が多すぎるときは活動したくないときに活動するんだろうけど。僕はそういう状態になってしまった時はセルフブラックと呼びたい。自分を追い込んで勝手に人生をブラックにしてるわけだからね。こういうブラックはできるだけ回避したい。

1日の人間としての活動が上出来だとみなしたわけだから、これから楽しむ時間にしていく。まだ1日分のYouTubeの動画とか、Twitchの配信は見ていないからそれを見て楽しむ時間とする。

まあ夜の活動が終わって早朝の活動が始まるってことかな。最近は朝は起きてるけど朝に起きれないからなんとかして生活習慣も整えていく決意はしている。

結局のところお腹って空くよね

今日(正確には昨日)は研究室に行ってボスとのミーティングをした。それだけでも十分偉いことをしたと思っている。ミーティングという一大イベントを済ませたので、帰りにラーメンを食べてから帰ることにした。

ラーメンを食べているときはとてもいい気分だし、ウマーと思いながら麺を啜るわけだが、そうしているうちにお腹は減り始めているのだ。スープを啜っているとき、コップに水を入れているとき、明日の予定について考えているとき、太陽フレアが地球に及ぼす影響について考察しているとき、高知県に行ってカツオを食べたいと言いたいときもお腹は空き始めているのだ。

なんであろうとお腹は空いている。いただきますの心は忘れない。

それでは、夢でご飯を食べようかな。

1日1ターン制

私たちは人間という動物に生まれてきた以上、活動をしなければならないという共通認識を持っている。私たちがナマケモノであれば、私のように大学に通学したり、大人が働いたりということはしなくてもよかったかもしれない。今回は1日の中の活動について考えていきたい。

 

1日に行う活動として、勉強があったり遊びがあったり仕事があったりとたくさんのことがあると思う。大学生はそれに加えてバイトをしなければならなかったりと多忙な場合もある。こうした活動を行なってきて、1日に何個もの活動を行うのがきついと感じてきた。遊ぶのなら遊んだだけで完結して欲しいし、仕事をするなら仕事をしただけで完結してほしい。万人が1日1ターンで済むようになって欲しいと願っている。

 

どうしても1日に2ターン以上活動しなければならないときは、一番力を入れるターンを決めて、それ以外のターンでは省エネで活動することを許可して欲しい。人間は1日にたくさんのターン活動できるようにできていないと思っているからだ。常に省エネみたいな感じで活動してるように見受けられますみたいな感想は求めていない。

 

時折バイトもして授業にも出席し遊びにも参加してということを繰り返し行なっている化け物を目にするが、こんな特殊能力はどこで習得しているのだろうか。1日に複数ターン活動できるようになるためになにかしらの行動ができるはずだとは思っているが、まだその方法は考案できていない。そうした研究もおこなっていきたい所存である。

「やる気がないなら帰れ」の考察

私は義務教育を修了し、高等学校を卒業した経験がある。僕は捻くれ者なので、他の人に怒られることが多々あった。私は怒られることが嫌いだが、怒っている人の発言には極力従うようにしている。これは、怒っている人に反抗をすることによってより怒られたくないからである。怒っている人の発言の中で、「次からは〇〇しなさい」とか「〇〇しないようにしなさい」というお言葉はこちらにとって厳しい発言である。しかし、なぜか時々こちらにとってラッキーな発言をしてくれることがある。「やる気がないなら帰れ」とか、「出ていきなさい」というのが一例である。こうした発言の中で、「やる気がないなら帰れ」という発言を考察していく。 

「やる気がないなら帰れ」に従うためにはどう行動したら良いのか?

「やる気がないなら帰れ」という発言をされたとき、言われた側はどう行動すればいいのか。発言に従うためには、私の行動によって「やる気がないなら帰れ」という発言が正しくなること、すなわち、命題「やる気がないならば帰れ」が真になるように行動するのが良いということだ。この命題が真になる場合を検討するために、命題pを「やる気がない」, 命題qを「帰る」として、「やる気がないなら帰れ」という命題を「p⇒q」と置き換えて考えることにする。このとき、真偽値表を書くと以下のようになる。多分正しい真偽値表になっているはずだ。

 

真偽値表

真偽値表をみてわかるのは、命題を真にするために注意をする必要があるのは「やる気がない場合」のみであり、「やる気がある」ときは帰っても残ってもいうことを聞いているとみなせる。したがって、やる気がある人は残っても帰っても言うことを聞いている。「やる気がない」場合は、帰らないと言うことを聞いたことにならない。「やる気がない」場合は、どんな手を使っても帰るべきだろう。やる気がある人間はその場に残りたいからやる気があるのかもしれないが、やる気はあってもその日は帰りたいと思っている場合はなんの躊躇いもなく帰って良い。

「やる気がないなら帰れ」と言ってしまう心理

「やる気がないなら帰れ」と発言する理由についても考察していく。まず順当に考えられる理由は、やる気がない人に帰って欲しいから発言する場合である。つまり、やる気がない人に帰って欲しいから「やる気がないなら帰れ」と発言するのである。これは当たり前のことかもしれないが、「やる気がないなら帰れ」という発言を考察するにあたって重要な事項であるので書かせていただいた。

 

次に考えられる理由は、実際には帰ってもらいたいとは考えていないが、それでも帰らずに頑張り始めて欲しいという期待を込めた「やる気がないなら帰れ」だ。この理由は、いわば謝られ待ちのようなものだ。自分が謝られることとやらせてくださいの発言を待っている。やる気第一研究所の研究結果では、この理由で「やる気がないなら帰れ」と発言する人は性格が悪いという結論を導いている。もちろんそんな研究結果も研究所も存在しないが。

 

結論としては私は「やる気がないなら帰れ」と言われてマジで帰ったことがある。以上に示した図の通り、やる気がなかったので言うことを聞くためには帰るしかなかったのである。指導者は自分の発言に責任を持って欲しいなと感じている。

 

以上で述べた内容は数学的に厳密ではないので妄信しないように。また「やる気がないなら帰れ」という発言をされて帰るのは自己責任なので私のせいにしないように。

東京に戻ってきた

今まで実家のほうに帰省をしていたけど、本日アパートの方に戻ってきた。家族と過ごす時間は楽しい時間だった。喋りながら成人の飲み物を飲んだり、普段聞かないうるさいTVの音を聞いたりするのはアパートにいるときは体験しないものなので珍しい経験ができる。賑やかな時間ももちろんいいが、アパートにいるときの静寂も悪くない。アパートの空間は自分ひとりでコントロールできる空間である。生じる音、見えるもの、食べるものは自分の管轄だ。アパートに帰ってくる瞬間は、家族と一緒にいることの良さと、ひとりでいることの良さを同時に実感することができるからいい瞬間だ。

 

アパートに帰ってきたから、実家では見れなかったTwitchのアーカイブとか、実況の動画とかをたくさんみるぞー。あと、深夜徘徊、白昼徘徊もし放題だからね。

車必須地域あるある

帰省という名目で東京都比較して疎な地域に来ている。東京ではあまり車の必要性を感じないが、一定以上疎な地域になると車が必須になる。最近頑張って免許を取ろうとしているのもあって、車必須地域のあるあるを書きたいと思った。

 

車必須地域のあるある言いたい

 

1.運転できる人数分車を所持している。

2.車を安売りしている謎のショップがある。

3.家の近くのお店に行くときも車を使いがち。

4.駅まで行くのに車に乗って行った方が楽。

5.車で旅行しがち。

6.道が空いてる。

 

1番に関しては家族で話していても納得してもらえることだった。1人が車を運転してるときもう1人が外出できないじゃんって。

 

車が必須な地域ではあるけどあるあるが思いのほか思いつかなくて残念。他にもあるあるを思いついたら記録して行きたい。車必須地域あるある募集してます。