夜の活動

とりあえずおはようございます。いままで研究室の活動の一環として計算を行なっており、いい感じに計算結果を求めることができたので昨日(今日に差し掛かっているが)の人間としての活動は上出来であるとみなす。結果として夜を更かしていることにはなるが、朝に活動をしても夜に活動をしても外の明るさが違うだけで特に問題ないと感じている。なんなら夜も大いなる勘違いをすれば朝と同じだからね。

活動なんてできる時にやって、やりたくない時はやらないくらいがちょうどいい。やらなきゃ行けないことをサボってタスクが溜まってしまったときや、割り振られた仕事が多すぎるときは活動したくないときに活動するんだろうけど。僕はそういう状態になってしまった時はセルフブラックと呼びたい。自分を追い込んで勝手に人生をブラックにしてるわけだからね。こういうブラックはできるだけ回避したい。

1日の人間としての活動が上出来だとみなしたわけだから、これから楽しむ時間にしていく。まだ1日分のYouTubeの動画とか、Twitchの配信は見ていないからそれを見て楽しむ時間とする。

まあ夜の活動が終わって早朝の活動が始まるってことかな。最近は朝は起きてるけど朝に起きれないからなんとかして生活習慣も整えていく決意はしている。

結局のところお腹って空くよね

今日(正確には昨日)は研究室に行ってボスとのミーティングをした。それだけでも十分偉いことをしたと思っている。ミーティングという一大イベントを済ませたので、帰りにラーメンを食べてから帰ることにした。

ラーメンを食べているときはとてもいい気分だし、ウマーと思いながら麺を啜るわけだが、そうしているうちにお腹は減り始めているのだ。スープを啜っているとき、コップに水を入れているとき、明日の予定について考えているとき、太陽フレアが地球に及ぼす影響について考察しているとき、高知県に行ってカツオを食べたいと言いたいときもお腹は空き始めているのだ。

なんであろうとお腹は空いている。いただきますの心は忘れない。

それでは、夢でご飯を食べようかな。

1日1ターン制

私たちは人間という動物に生まれてきた以上、活動をしなければならないという共通認識を持っている。私たちがナマケモノであれば、私のように大学に通学したり、大人が働いたりということはしなくてもよかったかもしれない。今回は1日の中の活動について考えていきたい。

 

1日に行う活動として、勉強があったり遊びがあったり仕事があったりとたくさんのことがあると思う。大学生はそれに加えてバイトをしなければならなかったりと多忙な場合もある。こうした活動を行なってきて、1日に何個もの活動を行うのがきついと感じてきた。遊ぶのなら遊んだだけで完結して欲しいし、仕事をするなら仕事をしただけで完結してほしい。万人が1日1ターンで済むようになって欲しいと願っている。

 

どうしても1日に2ターン以上活動しなければならないときは、一番力を入れるターンを決めて、それ以外のターンでは省エネで活動することを許可して欲しい。人間は1日にたくさんのターン活動できるようにできていないと思っているからだ。常に省エネみたいな感じで活動してるように見受けられますみたいな感想は求めていない。

 

時折バイトもして授業にも出席し遊びにも参加してということを繰り返し行なっている化け物を目にするが、こんな特殊能力はどこで習得しているのだろうか。1日に複数ターン活動できるようになるためになにかしらの行動ができるはずだとは思っているが、まだその方法は考案できていない。そうした研究もおこなっていきたい所存である。

「やる気がないなら帰れ」の考察

私は義務教育を修了し、高等学校を卒業した経験がある。僕は捻くれ者なので、他の人に怒られることが多々あった。私は怒られることが嫌いだが、怒っている人の発言には極力従うようにしている。これは、怒っている人に反抗をすることによってより怒られたくないからである。怒っている人の発言の中で、「次からは〇〇しなさい」とか「〇〇しないようにしなさい」というお言葉はこちらにとって厳しい発言である。しかし、なぜか時々こちらにとってラッキーな発言をしてくれることがある。「やる気がないなら帰れ」とか、「出ていきなさい」というのが一例である。こうした発言の中で、「やる気がないなら帰れ」という発言を考察していく。 

「やる気がないなら帰れ」に従うためにはどう行動したら良いのか?

「やる気がないなら帰れ」という発言をされたとき、言われた側はどう行動すればいいのか。発言に従うためには、私の行動によって「やる気がないなら帰れ」という発言が正しくなること、すなわち、命題「やる気がないならば帰れ」が真になるように行動するのが良いということだ。この命題が真になる場合を検討するために、命題pを「やる気がない」, 命題qを「帰る」として、「やる気がないなら帰れ」という命題を「p⇒q」と置き換えて考えることにする。このとき、真偽値表を書くと以下のようになる。多分正しい真偽値表になっているはずだ。

 

真偽値表

真偽値表をみてわかるのは、命題を真にするために注意をする必要があるのは「やる気がない場合」のみであり、「やる気がある」ときは帰っても残ってもいうことを聞いているとみなせる。したがって、やる気がある人は残っても帰っても言うことを聞いている。「やる気がない」場合は、帰らないと言うことを聞いたことにならない。「やる気がない」場合は、どんな手を使っても帰るべきだろう。やる気がある人間はその場に残りたいからやる気があるのかもしれないが、やる気はあってもその日は帰りたいと思っている場合はなんの躊躇いもなく帰って良い。

「やる気がないなら帰れ」と言ってしまう心理

「やる気がないなら帰れ」と発言する理由についても考察していく。まず順当に考えられる理由は、やる気がない人に帰って欲しいから発言する場合である。つまり、やる気がない人に帰って欲しいから「やる気がないなら帰れ」と発言するのである。これは当たり前のことかもしれないが、「やる気がないなら帰れ」という発言を考察するにあたって重要な事項であるので書かせていただいた。

 

次に考えられる理由は、実際には帰ってもらいたいとは考えていないが、それでも帰らずに頑張り始めて欲しいという期待を込めた「やる気がないなら帰れ」だ。この理由は、いわば謝られ待ちのようなものだ。自分が謝られることとやらせてくださいの発言を待っている。やる気第一研究所の研究結果では、この理由で「やる気がないなら帰れ」と発言する人は性格が悪いという結論を導いている。もちろんそんな研究結果も研究所も存在しないが。

 

結論としては私は「やる気がないなら帰れ」と言われてマジで帰ったことがある。以上に示した図の通り、やる気がなかったので言うことを聞くためには帰るしかなかったのである。指導者は自分の発言に責任を持って欲しいなと感じている。

 

以上で述べた内容は数学的に厳密ではないので妄信しないように。また「やる気がないなら帰れ」という発言をされて帰るのは自己責任なので私のせいにしないように。

東京に戻ってきた

今まで実家のほうに帰省をしていたけど、本日アパートの方に戻ってきた。家族と過ごす時間は楽しい時間だった。喋りながら成人の飲み物を飲んだり、普段聞かないうるさいTVの音を聞いたりするのはアパートにいるときは体験しないものなので珍しい経験ができる。賑やかな時間ももちろんいいが、アパートにいるときの静寂も悪くない。アパートの空間は自分ひとりでコントロールできる空間である。生じる音、見えるもの、食べるものは自分の管轄だ。アパートに帰ってくる瞬間は、家族と一緒にいることの良さと、ひとりでいることの良さを同時に実感することができるからいい瞬間だ。

 

アパートに帰ってきたから、実家では見れなかったTwitchのアーカイブとか、実況の動画とかをたくさんみるぞー。あと、深夜徘徊、白昼徘徊もし放題だからね。

車必須地域あるある

帰省という名目で東京都比較して疎な地域に来ている。東京ではあまり車の必要性を感じないが、一定以上疎な地域になると車が必須になる。最近頑張って免許を取ろうとしているのもあって、車必須地域のあるあるを書きたいと思った。

 

車必須地域のあるある言いたい

 

1.運転できる人数分車を所持している。

2.車を安売りしている謎のショップがある。

3.家の近くのお店に行くときも車を使いがち。

4.駅まで行くのに車に乗って行った方が楽。

5.車で旅行しがち。

6.道が空いてる。

 

1番に関しては家族で話していても納得してもらえることだった。1人が車を運転してるときもう1人が外出できないじゃんって。

 

車が必須な地域ではあるけどあるあるが思いのほか思いつかなくて残念。他にもあるあるを思いついたら記録して行きたい。車必須地域あるある募集してます。

"知り合い"が一番関わりづらい

生まれた時からぼうっと生きていたら、良くも悪くも成人をしてしまった。そんな人生の中でも人と関わる機会は少なからずあった。私は人と関わることが得意ではないので、関わりづらいと感じることが少なからずある。今までを振り返ってどんな場合に関わりづらいのかを考えたので、文章にしていく。

 

関わりづらい感覚を説明するために、まず人との親しさの度合いを考えたいと思う。人との親しさというのは、全く関わったことのない段階、嫌いな段階、知り合いとみなせる段階、友人と言える段階、親友と言える段階まで幅広くあると感じる。一次元の軸上に簡単に(本当に簡単すぎる)表現した。図を以下に示す。

適当なグラフ

この図は関わったことのない段階を中心とした。左に進むにつれて親しさがマイナス、すなわち嫌いとなり、右に進むにつれて親しさがプラス、すなわち好きとなる。このような軸を考えたとき、一番関わりづらいと感じるのは,知り合いとみなせる段階なのではないか。この段階にいる人間と街中で遭遇したとき、なんて声をかけたらいいかわからなくなってしまう。気軽に挨拶するわけにもいかないし、かと言って無視をするのも気が引ける。このような存在にはそもそも気付かれないように避けてしまうのだが、それもそれで良くないと反省することがある。

 

長い期間協力して仕事をしたとか、協力してゲームをクリアしたとかであれば知り合いの段階をパスすることができる。たまたまクラスが一緒になったとか、課題を一緒に解きましたとかだと知り合いの段階になると感じている。すなわち、積極的に人と関わると図上の知り合いとみなせる人は増えていくと思っている。こうした人たちと気楽に関われるようになれば、人との関わりが楽しくなるのになあと想像している。

 

そもそもこのように人との関係をグラフ上に表現することがモラルに反しているかもしれないが、どうしても感覚としてはあるものだ。少し話しかけるのに気か引けると思っても、深いことを考えずに気楽に接することができるようにしたい。人は話しかけられたからどうとかそんなに気にするものではないからね。