1日1ターン制

私たちは人間という動物に生まれてきた以上、活動をしなければならないという共通認識を持っている。私たちがナマケモノであれば、私のように大学に通学したり、大人が働いたりということはしなくてもよかったかもしれない。今回は1日の中の活動について考えていきたい。

 

1日に行う活動として、勉強があったり遊びがあったり仕事があったりとたくさんのことがあると思う。大学生はそれに加えてバイトをしなければならなかったりと多忙な場合もある。こうした活動を行なってきて、1日に何個もの活動を行うのがきついと感じてきた。遊ぶのなら遊んだだけで完結して欲しいし、仕事をするなら仕事をしただけで完結してほしい。万人が1日1ターンで済むようになって欲しいと願っている。

 

どうしても1日に2ターン以上活動しなければならないときは、一番力を入れるターンを決めて、それ以外のターンでは省エネで活動することを許可して欲しい。人間は1日にたくさんのターン活動できるようにできていないと思っているからだ。常に省エネみたいな感じで活動してるように見受けられますみたいな感想は求めていない。

 

時折バイトもして授業にも出席し遊びにも参加してということを繰り返し行なっている化け物を目にするが、こんな特殊能力はどこで習得しているのだろうか。1日に複数ターン活動できるようになるためになにかしらの行動ができるはずだとは思っているが、まだその方法は考案できていない。そうした研究もおこなっていきたい所存である。

「やる気がないなら帰れ」の考察

私は義務教育を修了し、高等学校を卒業した経験がある。僕は捻くれ者なので、他の人に怒られることが多々あった。私は怒られることが嫌いだが、怒っている人の発言には極力従うようにしている。これは、怒っている人に反抗をすることによってより怒られたくないからである。怒っている人の発言の中で、「次からは〇〇しなさい」とか「〇〇しないようにしなさい」というお言葉はこちらにとって厳しい発言である。しかし、なぜか時々こちらにとってラッキーな発言をしてくれることがある。「やる気がないなら帰れ」とか、「出ていきなさい」というのが一例である。こうした発言の中で、「やる気がないなら帰れ」という発言を考察していく。 

「やる気がないなら帰れ」に従うためにはどう行動したら良いのか?

「やる気がないなら帰れ」という発言をされたとき、言われた側はどう行動すればいいのか。発言に従うためには、私の行動によって「やる気がないなら帰れ」という発言が正しくなること、すなわち、命題「やる気がないならば帰れ」が真になるように行動するのが良いということだ。この命題が真になる場合を検討するために、命題pを「やる気がない」, 命題qを「帰る」として、「やる気がないなら帰れ」という命題を「p⇒q」と置き換えて考えることにする。このとき、真偽値表を書くと以下のようになる。多分正しい真偽値表になっているはずだ。

 

真偽値表

真偽値表をみてわかるのは、命題を真にするために注意をする必要があるのは「やる気がない場合」のみであり、「やる気がある」ときは帰っても残ってもいうことを聞いているとみなせる。したがって、やる気がある人は残っても帰っても言うことを聞いている。「やる気がない」場合は、帰らないと言うことを聞いたことにならない。「やる気がない」場合は、どんな手を使っても帰るべきだろう。やる気がある人間はその場に残りたいからやる気があるのかもしれないが、やる気はあってもその日は帰りたいと思っている場合はなんの躊躇いもなく帰って良い。

「やる気がないなら帰れ」と言ってしまう心理

「やる気がないなら帰れ」と発言する理由についても考察していく。まず順当に考えられる理由は、やる気がない人に帰って欲しいから発言する場合である。つまり、やる気がない人に帰って欲しいから「やる気がないなら帰れ」と発言するのである。これは当たり前のことかもしれないが、「やる気がないなら帰れ」という発言を考察するにあたって重要な事項であるので書かせていただいた。

 

次に考えられる理由は、実際には帰ってもらいたいとは考えていないが、それでも帰らずに頑張り始めて欲しいという期待を込めた「やる気がないなら帰れ」だ。この理由は、いわば謝られ待ちのようなものだ。自分が謝られることとやらせてくださいの発言を待っている。やる気第一研究所の研究結果では、この理由で「やる気がないなら帰れ」と発言する人は性格が悪いという結論を導いている。もちろんそんな研究結果も研究所も存在しないが。

 

結論としては私は「やる気がないなら帰れ」と言われてマジで帰ったことがある。以上に示した図の通り、やる気がなかったので言うことを聞くためには帰るしかなかったのである。指導者は自分の発言に責任を持って欲しいなと感じている。

 

以上で述べた内容は数学的に厳密ではないので妄信しないように。また「やる気がないなら帰れ」という発言をされて帰るのは自己責任なので私のせいにしないように。

東京に戻ってきた

今まで実家のほうに帰省をしていたけど、本日アパートの方に戻ってきた。家族と過ごす時間は楽しい時間だった。喋りながら成人の飲み物を飲んだり、普段聞かないうるさいTVの音を聞いたりするのはアパートにいるときは体験しないものなので珍しい経験ができる。賑やかな時間ももちろんいいが、アパートにいるときの静寂も悪くない。アパートの空間は自分ひとりでコントロールできる空間である。生じる音、見えるもの、食べるものは自分の管轄だ。アパートに帰ってくる瞬間は、家族と一緒にいることの良さと、ひとりでいることの良さを同時に実感することができるからいい瞬間だ。

 

アパートに帰ってきたから、実家では見れなかったTwitchのアーカイブとか、実況の動画とかをたくさんみるぞー。あと、深夜徘徊、白昼徘徊もし放題だからね。

車必須地域あるある

帰省という名目で東京都比較して疎な地域に来ている。東京ではあまり車の必要性を感じないが、一定以上疎な地域になると車が必須になる。最近頑張って免許を取ろうとしているのもあって、車必須地域のあるあるを書きたいと思った。

 

車必須地域のあるある言いたい

 

1.運転できる人数分車を所持している。

2.車を安売りしている謎のショップがある。

3.家の近くのお店に行くときも車を使いがち。

4.駅まで行くのに車に乗って行った方が楽。

5.車で旅行しがち。

6.道が空いてる。

 

1番に関しては家族で話していても納得してもらえることだった。1人が車を運転してるときもう1人が外出できないじゃんって。

 

車が必須な地域ではあるけどあるあるが思いのほか思いつかなくて残念。他にもあるあるを思いついたら記録して行きたい。車必須地域あるある募集してます。

"知り合い"が一番関わりづらい

生まれた時からぼうっと生きていたら、良くも悪くも成人をしてしまった。そんな人生の中でも人と関わる機会は少なからずあった。私は人と関わることが得意ではないので、関わりづらいと感じることが少なからずある。今までを振り返ってどんな場合に関わりづらいのかを考えたので、文章にしていく。

 

関わりづらい感覚を説明するために、まず人との親しさの度合いを考えたいと思う。人との親しさというのは、全く関わったことのない段階、嫌いな段階、知り合いとみなせる段階、友人と言える段階、親友と言える段階まで幅広くあると感じる。一次元の軸上に簡単に(本当に簡単すぎる)表現した。図を以下に示す。

適当なグラフ

この図は関わったことのない段階を中心とした。左に進むにつれて親しさがマイナス、すなわち嫌いとなり、右に進むにつれて親しさがプラス、すなわち好きとなる。このような軸を考えたとき、一番関わりづらいと感じるのは,知り合いとみなせる段階なのではないか。この段階にいる人間と街中で遭遇したとき、なんて声をかけたらいいかわからなくなってしまう。気軽に挨拶するわけにもいかないし、かと言って無視をするのも気が引ける。このような存在にはそもそも気付かれないように避けてしまうのだが、それもそれで良くないと反省することがある。

 

長い期間協力して仕事をしたとか、協力してゲームをクリアしたとかであれば知り合いの段階をパスすることができる。たまたまクラスが一緒になったとか、課題を一緒に解きましたとかだと知り合いの段階になると感じている。すなわち、積極的に人と関わると図上の知り合いとみなせる人は増えていくと思っている。こうした人たちと気楽に関われるようになれば、人との関わりが楽しくなるのになあと想像している。

 

そもそもこのように人との関係をグラフ上に表現することがモラルに反しているかもしれないが、どうしても感覚としてはあるものだ。少し話しかけるのに気か引けると思っても、深いことを考えずに気楽に接することができるようにしたい。人は話しかけられたからどうとかそんなに気にするものではないからね。

教習所に入校した

免許を取得するにあたってAT車専用か一般か選択する一幕があるが、私はそこまで迷うことなく一般を選んだ。MT車も運転できるようになるやつ。軽トラックとかを運転する可能性がわずかでも残されているのであれば一般でええやろと思いまして特に後悔はしていない。後悔はしていない。

 

車校に入校してからおよそ1ヶ月が経つ。車の免許を取るためには第一段階と第二段階を修了する必要があるが、まだまだ第一段階の途中である。技能教習は1on1で教官に教えてもらう形になっている。優しい共感はあんまりおらず、結構厳しいのでメンタルが弱い人は免許取得できないんじゃないかと思っている。恐怖を乗り越えてもうすぐで第一段階の技能教習が終わりそうだが、こんなんで運転できるようになる気がしない。

 

MT車クラッチペダルというものがあって、クラッチペダルをつなぐことによってスピード調節をしたりギアチェンジをする。クラッチペダルの操作に慣れるために多くの時間がかかる。自分もうまくコントロールできない。

じゃあAT車は簡単かというとそんなことはなくて、AT車は車が勝手に動き出すのでそれはそれでコントロールが難しかった。自動車とかいう乗り物運転むずかしすぎだろ。

 

急いで免許取得をしたいわけではないのでゆっくりやっていこうと思う。仕事で運転をする予定もないし遊びに行く予定もないから計画性のない行動ではある。まあそのうち車の運転をして遊んだりする未来もあるのかもしれない。

気がついたら4年生になってました

最近はゲームというものがあまり楽しく感じなくなり(やってる最中は楽しいが、終わった後に時間の無駄であることに気づく)、読書をすることにしている。最近読んだ本は『馬鹿と嘘の弓(森博嗣)』,『歌の終わりは海(森博嗣)』である。この作品たちの感想はのちに語りたい気分ではある。

 

そんな春季休業を過ごしていたわけであるが、春季休業も終わってしまった。終わってしまったということは、これから4年生がスタートするということだ。この現実はどう頑張っても変えることができない。大学4年生になったということは、研究がスタートするということである。大学の研究室説明会という催しがあり、その催しでもたびたび説明されていることであるが、研究というものは大変らしい。「今までの講義を受講するのと違って、自ら進んで研究対象を探さないといけない。」だの「研究というものは正解があるわけではない」だの脅された記憶がある。こんなことを言われると、研究に対して仰々しい印象を抱いてしまうのだが。

 

仰々しい印象を植え付けられたものの、研究に対する期待というものがある。私がやりたい研究をできる予定なので、それが楽しみなのだ。研究を行うために基礎的な知識を予習・勉強する。もちろんわからない問題にぶち当たることがあると想定できるが、その謎に向けて試行錯誤できる。非常に楽しそうではないか。

一般的なことであるが、今までとやることがガラッと変わるとき少なからず抱く期待もある。

 

喫緊の命題は、私に研究の適性があるのかである。何か新しいことに取り組むなら、楽しんでやりたいと言うのが本心だ。