テキストエディットでLaTeXの文書を作った

残念ながらわれわれ理系大学生はレポートを書かなければならない。レポートを書く上でワードやLaTeXなどの文書作成ソフトを使うのが一般的だろう(単位によっては手書きをしなければいけないこともある。)

 

レポートを書くときは、数あるソフトの中でもLaTeXを使っている。使っている理由は、動作が軽いこと、式の番号を管理しなくて良いこと、レイアウトなど余計なことを考えなくてよいことである。最初はコマンドを覚えなくてはならないので慣れるまで多少時間はかかるが、なれてしまえば簡単な文書はLaTeXの方が作りやすい。

 

以前まではLaTeXで文書を作成するときにVSCodeを使用していた。VSCodeは素晴らしいソフトで、コマンドを入力するアシストをしてくれるし、コンパイルもすぐにできるので優秀である。

しかし勝手に文章を補完したり、画面上の大部分を占有するなど気に食わないポイントがあったので、別の方法を試してみることにした。

 

今回試しに使用したのは、Macのテキストエディットである。テキストエディットなら邪魔されることなく書けるかな思い勢いに任せて使用した。

結論から言うとそれなりに使いやすいと感じた。アプリ自体はVSCodeよりも軽いし、画面上の面積をたくさん占領することもない。

テキストエディットでLaTeXの文書を作成する時に難しいポイントは、コマンドを打った時と環境が変わった時に色が変わらない事である。実際コンパイルをした時によくわからんエラーを吐いたときがあったのでちゃんと確認しないといけない。

 

意外だったのは拡張子が.texではなく.txtでも問題なくコンパイルが実行できたことである。.txtが好きな人やテキストエディットに魅了されている人は是非ともLaTeXの文書も作ってみてもらいたい。

 

この気持ちを共有したいので、テキストエディットで簡単な書類を作成してみた。

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txtファイル

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コンパイルした文書

 

そこまでこだわりはない

自分ではない人の考えに触れると,他の人は意外とこだわりを持って行動している事実に気づかされる.観察をしていて思うのは,こだわりを持っているからこそものに憤りを覚えるし,こだわりを持っているからこそ意見を主張する.こだわりを持っているからこそ日常の活動ができていると感じるのだ.

 

私は今こだわってこの文章を書いているが,普段生活しているときはここまでこだわることはほとんどない.こだわろうと思ったものも,途中で飽きてこだわらなくなってしまう.こだわらなくなったものでも,自分の中で8割くらいのクオリティを出せるようにしている.

 

こだわりがないとどんなことが起きるか 

物事にこだわりがなくなると,他人との意見の衝突が少なくなる.こだわっていないからこそ他人の意見と迎合できる.こだわりがないからといって,自分の意見を持っていないわけではない.時には自分の意見も主張し,相手の意見にも賛成する.したがって他人と衝突をすることは少なく,自分が不愉快にならずに済む.自分が不愉快にならないというのは非常にメリットだと思う.

 

しかしこだわりがないと,自分の意見を主張する回数が減るから意見を持っていないと思われることも少なくない.基本的に自分の主張はあと,自分は後手に回ることが多いからだ.どうしても意見を言わないといけない時は主張するが,できれば他の人に意見を言って欲しいという考えが根底にある.

 

最後に 

ここからは完全に自分の主観であるが,こだわりを持っていないからといって悩む必要はないと考えている.自分がやりたいことにこだわりを持ち,夢を見ないといけないわけではない.自分ができると思ったことをよりできるようにするとか,他の人がやりたいと感じていることをサポートするとかそういう生き方も悪くない.こだわりを持っていなくても行動できる方がより強いんじゃないかな.

 

忙しいのは意外と楽しい

4月になって長い春休みも終わり、学期が始まった。大学生の春休みは比較的長い(我々電通大生はあまり長い気がしないが)ので、休みが終わると大きな喪失感がある。喪失感とともに大学の忙しさが攻め込んでくる。

 

去年から大学の活動は不規則だ。授業がオンラインになり、しばらくして対面授業が行われることになったと思ったら一部の講義はオンラインのまま。加えてサークル活動は対面で活動できると思ったら活動できなくなってしまった。


そういった不規則な活動も忙しいと感じる要因の一つだろう。大学の講義を家で受けるということは、オフの時間からオンの時間へとシームレスに変わるということだから、今までよりも気を休めるのが難しい。一年間経っているとはいえど、まだ慣れていない点が多い。

 

少なくとも生活様式が変化して忙しいと感じている人が大半ではなかろうか。私もその一人である。忙しい忙しいと主張はするが、体を壊すほどの忙しさでなければわりと楽しいものだ。忙しい状況にある自分がどんな思いをしているか振り返ってみるとか、忙しくやることが多い中でYouTubeを見たりゲームをしてサボったりするのが楽しい。そして何より自分が忙しいということを他人にひけらかすのが最高だなと思う。

 

今忙しいと感じているのは実験レポートを書くことだ。実験レポートはいけそうと思った時から勝負が始まる。いけそうと思った時から6時間くらいかかるとかザラにある。時間だけが無くなっていってレポートは一向に完成しない。この忙しさをレポートが書いたことない人に味あわせてやるのが夢だ(適当)。

 

なんだかんだ言って忙しい時はその忙しさを楽しさに変換してやろうと思う。忙しさどんとこい。忙しすぎる時はそんなうまいこといかないけどね。

気づかない人は本当に気づかない

いままで学校等で気づいた人がやりましょうという決め事をしたことがある。それから気づいていた人がやっていたのだが、私は大体気づく。他の人はどうして気づかないのかと思っていた。

 

そこで私は、気づいた人がやるというルールは不公平だと感じるのである。気付くということはある種の能力であり、その仕事は気付くという能力を持っている人に依頼しているのと同義だと捉えているからだ。つまり、気付くことができる人の仕事が増えるだけである。

 

また、自分で気づいて何回も仕事をしていると、その仕事をやっていない人に対して嫉妬をし始める。嫉妬心が芽生えるだけでなく、自分が気づかないフリをすれば仕事をしなくていいことに気づく。気づかないふりをするだけで仕事をやらなくていいなら儲け物だろう。

 

以上のことから、気付いた人がやるというルールは良くないと言えるだろう。気づいた人がやるというよりも、明確に役割を分担した方がいいと思うのだ。役割を分担することによって、自分がやらなくていい仕事が減る。それに加えて、自分が気づいた時も担当者に言えばやってもらえるため他の人に嫉妬をすることもなくなる。

 

個人的に思うのは、自分の仕事は自分で気づけるようにしてもらいたいと考えている。自分で気づけるようにするためには、仕事をする前にある程度イメージをしておく必要がある。スポーツをしている人はイメージトレーニングをしていると聞いたことがあるが、仕事をする上でも同じようにイメージトレーニングをするのだ。イメージ通りにいくとは限らないが、イメージをしておくことによって気づく確率増える。仕事をする前の少しの時間をどう使うかが重要だろう。

プロセスを求めすぎるのはどうなのか

「いかに頑張ったのか」「どれだけ時間をかけたか」というようにプロセスを重視する人もいるだろう。確かにプロセスは重要かもしれないが、それに囚われてしまうのは良くないと感じる。

 

人々が相手に求めるもの

私が思うのは、人に何かをしてもらいたいと思ったとき、人それぞれ相手に求めるものが異なるということだ。主に相手に求めるものは二つに分類できると考えている。二つの分類は私の私見が入っている。

 

1 結果を求める

プロセスは関係なく、結果を重視するタイプだ。このタイプは、頼んだことが達成されれば良いので、依頼を達成するスピードは全く考慮していない。場合によっては依頼の内容をより発展させるために追加の意見を述べてくるかもしれない。これは粗探しではなく、純粋にできあがったものを改善したいという考えだ。納期が設定されていて納期まで期間が残っていたとしても粗探しに走ったりはせず、結果が出ていればよしとするタイプだ。

 

2 プロセスを求める

結果よりもプロセスを重視するタイプだ。これは頼んだことが達成されるよりも、どんな過程だったのかを重視する。悪くいえばやった感を求めるということである。依頼した人物が依頼した物事に対してどれだけ時間を割いたのかを確かめたいのだ。割いた時間を確かめることによって、どれだけ仕事をしたか確かめたいのだろう。こういうタイプは依頼を早めに達成できたとしても、納期が近づいていないと粗探しをしてくる場合がある。これは先ほど述べたように、割いた時間が短いからである。

 

プロセスが全てではない

プロセスを求める人はプロセスを求めるあまり、結果が出ていたとしても働いていない感覚に陥ってはいないだろうか。他人が結果を出しているのに粗探しをしてしまうのはこれが原因と考えている。粗探しをすることによって他人の時間も奪うことになるし、自分の時間ももったいない。

 

逆に、時間をかけるだけかけて全然結果が出ていないということはないだろうか。例えて言うならば、勉強をしている時、自分は全然理解できていないのに時間をかけたから理解した気になっている。という状況と同じである。

 

加えて努力をすることがよいと考えているので、自分のキャパシティを超えて頑張り過ぎてしまうこともあるだろう。頑張ることはいいが、頑張りすぎるのは良くない。

 

自分が目指す目標を定め、その目標を達成するために行動する。というのが一番良いと感じる。結果を出すために努力をする。その努力が一番いい努力の仕方ではないか。私たちが良いと感じる努力は、結果を出すためになされた努力なのだ。

中学校で学ぶということ

個人的な感想ではあるが、中学校は教師も生徒も大変だなと思う。私は中学生の時、結構大変な思いをした。

 

中学校の頃、学級委員のような役職についたことがある。級委員というのは,クラス全体を見渡し、ある程度まとめる能力がないと務まらないものだ。担任の先生が厳しい場合、当然クラスメイトの中には従わないものが現れる、クラスメイトの中に従わない人がいても、それをいかに従っているように見せるかという力量も必要だ。(中学校だったら不正は存分にしていいという魂胆である。)

 

これは中間管理職のような役職で、実際会社でもこんな状況が起きているんだろうなと思っている、中間管理職の苦悩を中学生の頃から体験できるのは素晴らしい社会構造だと感じる。さすがに会社で不正をするのはよくないが、不正をしたい気持ちもわかる。

 

学級委員の仕事 

ここで私がしていた学級委員の仕事を紹介したいと思う。自分が重かったと感じているものから紹介したい。

 

・毎日のクラスの目標を決定する

・委員会に出席してクラスの月の目標を決める

・クラスの代表として会議に出席する(会議の結果の報告もする)

・移動教室の時に整列させる

・クラス全員が次の授業の準備をしているか確認する

・ホームルームの時間での司会を務める

 

他にもいろいろやることはあったと思うが、以上のような業務がある。業務を振り返ると、幼児を相手していたのかなという気分になる。

 

クラスの目標を立てるのは結構大変だった。毎日クラスの目標を立てていると思いつかなくなってくるためだ。人間そんなに目標はないよ。

 

移動教室の業務に関してだが、それくらい自分一人でやれよと思っていた。まあ中学校では移動ができない人もいるだろうからそれを含めた配慮なのかなと忖度している。

 

この業務をこなすモチベーションは、やりがいとかそういう高尚なものではなく、単純にやらないと怒られることから生じる。特に報酬がもらえるわけでもない。なんなら生徒会に所属した方がウケもいいしメリットがあるだろう。まあだから学級委員はやらない方がいい。

学んだこと

最初にも述べたが、この経験を通じて学んだこといくつかある。最初に学んだことは人に過度な期待はしない方が良いということだ。やらない人はやらない。言うことを聞かない人は聞かない。それくらいに思っていた方が気楽である。

 

また、自分だけが大変な思いをしているなぁと感じたこともあるが、団体というのはそういう性質を持っていると理解した。自分ができることをアピールすることは大切だが、全部やってしまうのはよくない。一つできることがあれば、残りはできない方が得なのである。こいつはできるからやってもらおうということで自分がやることだけが増えていくためだ。

加えて、大人数のリーダーになるのと少人数のリーダーになるのは感覚が違うということを実感した。少人数をまとめるときは方向性を一致することができるが、大人数になるとそうもいかない。大人数になればなるほど説得しなければいけない人が増えるので、何かを決めるときは大変である。

 

以上のことを学べたので中学校での経験は無駄にはなっていない。こんな経験をしたい人は学級委員になることを勧める。

 

最後に

中学校は全員が同じことを勉強する場所であり、カリキュラムは基本的に全員一緒だ。しかし、クラスを運営するにあたってこなす業務は全員が一緒ではなく、それによって学ぶことは全員異なる。

 

学習面は飛び級できないけど、精神面ではどんどん飛び級できるのかなと感じている。中学校で頑張ると、他の人よりもたくさんのことを学べると言うことだ。

友達作りに関する想像

友達を作るって結構難しいことだと思う.私は新しい環境に入って友達を作る状況を別のもとに例えてみたことがある.例えた方が分かりづらいと思うかもしれないが,そこは容赦願いたい.今日はその時の想像を記していきたいと思う.

 

友達作りのイメージ

私が思っている友達作りのイメージは,小さな船が集まって大海原に新しい島を作るというものである.ここでは小さな船が個人で,新しい島というのが友人との新たな拠点と思ってもらいたい.先ほど述べたイメージを細かく述べると,個人の船がどこかの拠点から出発し,個人の船同士が出会った時,そこで島を作るという共同作業がスタートする.気が合えば島を作る作業がすぐに進み,自分の拠点として強固なものになっていく.

気が合わない時は島を作る作業は進まない.島を作る作業は協力をする必要があり,やる気がないとできるものではないからだ.

 

ある程度島が出来てくると,交流関係が固定化してくる.コミュニティを拡大するのに多くの労力を必要とするため,自分の島がある人は島の中でコミュニケーションを取ることが多くなる.

 

島の発展

友好関係が深まるにつれて島の中の文化が発展し,ルールができてくる.島の中の文化は,住人がコミュニケーションをとっていく上で育んでいくものだ.これは友人同士の集まりでしか通じないノリとかを表現している.また,島の中のルールは文書化されることはないが,島の住人であれば自然と守ることになる.友人と関わっていく中で,これをやったらこの人は嫌がるだろうということがわかってくるので,それを守るといったイメージだ.

 

島が発展した後の交流

拠点の島を持っている人は,新たな島に訪れるために船を出すのか,拠点の島に居続けるのかという選択肢がある.交流が好きな人は新しい島に向かって船を進めていくだろうし,今の関係で十分と感じている人は島に居続けるだろう.新たな島にむけて進む人も,拠点となる島がなくなるわけではないから,交友関係は継続される.

 

拠点となる島を持っていない人は,既にできている島に向かうか,残されたメンバーで新しい島を作る必要がある.島の文化が気に入り,島の住民に認められれば新たに拠点を得ることとなるし,そもそも拠点を持たずいろいろな島を転々とするタイプもいるだろう.

 

私は以上のような想像をした.友達作りに関する想像をしておくことで,自分がどうするべきかという戦略が建てやすくなる.そもそも友達作りというものは,そんなに深く考えて行うものではないかもしれないけどね.